第173回:台湾の中華文化復興運動が中国茶のイメージに与えた影響

当事者の発信する情報は、必ずしも真実を伝えるものではない

2022年のロシアのウクライナ侵攻の当初、各種メディアの報道が右往左往している状況が見られました。
これは、実際の現地情報が得られないため、ロシア当局もしくはウクライナ当局の発表をそのまま流したことが原因であったと思われます。
いわばプロパガンダ合戦の様相を呈していたため、こうした状況に慣れない日本のメディアは右往左往してしまったのであろうと思います。

この紛争のことをロシア側は「特別軍事作戦」(戦争や侵略では無い)と今でも呼称していますし、ウクライナ側は「ロシアによる侵略」と当初より訴えています。
現在は国連などでも「ロシア連邦によるウクライナ侵略」という決議が行われているなど、どちらが世界的な見方であるのかは明らかです。
メディアの報道も、世界的な見方が確立するに従い、プロパガンダ合戦からはやや距離を置いているように感じられます(もっともロシア側から見ると、プロパガンダ的に見える)。

なぜこのようなお話をしたかと言えば、当事者の話というのは、真実や一般的な見方とは異なることがあるということです。
実は中国茶に対するイメージも、この影響を受けています。

日本では「中国茶」に関しての情報は、中国から直接来るものだけではなく、台湾経由でもたらされたものも多くあります。

たとえば、台湾の方が雄弁に中国茶について語るのを見かけることもあるかと思います。
(参考)YouTube「中国茶のお点前」をジュディ・オングが解説します! https://www.youtube.com/watch?v=AbyS4kCD45Y&t=4s

何も知らない状態であれば、納得してしまいがちなのですが、違和感を覚える方もいらっしゃるでしょう。
ある程度の知識が入った状態で話をよく聞いてみると、烏龍茶に関しての説明は非常に流暢なのに、その他の茶類については非常に曖昧であることに気づきます。
これは仕方の無いことで、台湾の方が実際に親しんでいるお茶は、原則として台湾で生産されているお茶(台湾茶)であることが、ほとんどだからです。
台湾産の緑茶や紅茶は飲んだことがあったとしても、中国産の緑茶や紅茶、黄茶やプーアル茶以外の黒茶は飲んだことすらない、という方が大多数なので仕方ありません。
これは欧米に招かれた日本茶の専門家が、「あなたはアジア人なのだから、アジアのお茶全般について講演してください」という無茶振りをされている状態に近いわけです。
そのような状況であるにも関わらず、中国茶全体を語ろうとしがちです(そして、そのような状況なので誤りが多分に含まれる)。

なぜ、このような現象が起きるのか?については、これは突き詰めて行けば、中華人民共和国と中華民国の対立構造があります。
それを象徴するものが、大陸の「文化大革命」に対抗して台湾で行われた「中華文化復興運動」です。
前者については、ご存じの方も多いと思うのですが、後者についてはほとんど日本で知る人もいません。
しかし、中国茶を学ぶ上では、極めて重要な事項であると思いますので、今回はこれについて少し解説します。

 

第二次国共内戦により中華民国は台湾へ

まずは台湾の歴史的経緯を整理しておきます。

1945年8月15日に日本が降伏し、太平洋戦争のみならず日中戦争も終結します。
同年10月には蒋介石が率いる南京国民政府軍が到着し、台湾の「光復」(中国への復帰)式典が行われ、台湾行政公所が設置されます。
ここから中華民国の台湾統治が始まりますが、役人の腐敗や治安の悪化などに反発する台湾人は1947年2月28日に蜂起し、二・二八事件が発生します。
これを国民政府は武力を用いて徹底弾圧し、1947年からは台湾省を設置して、より強力な統治を敷きます(恐怖政治)。

一方、中国大陸では1945年10月から第二次国共内戦が勃発します。
当初は米国の援助を受けた国民党軍の優位で戦況が進み、中国全土に支配地域を広げていきました。

しかし、1947年になると米国の援助が細るようになったことや腐敗などもあり、国民党軍の勢いが落ちる一方、ソ連の支援を受けた共産党軍が勢いを増し、形勢は逆転していきます。
1948年9月から1949年1月の三大戦役で主力の多くを失った国民党軍は、蒋介石が総統を辞任。中華民国の首都も南京から広州へ移ります。

1949年10月1日に、中国共産党により中華人民共和国の建国が宣言されましたが、この時点では西南部の一部地域は中華民国の支配地域となっていました。
その後も、中華人民共和国軍の攻撃は止まらず、中華民国政府は重慶、成都へと遷都し、最終的に1949年12月7日に台湾へ移り、台北を中華民国の臨時首都とすることになります。
なお、この混乱のさなか、中華民国政府が保管していた北京・故宮博物院の宝物も、徐々に台湾に移されていきました。
1950年には海南島や浙江省の舟山群島、万山群島などが陥落し、中華民国は大陸側の拠点をほぼ失い、台湾と福建省の一部の島(金門、馬祖)などを統治するのみとなりました。

以後は1954年と1958年に福建省の金門島を巡る金門砲戦があったほか、雲南省などでは国民党軍が1960年までゲリラ的に戦いました。
が、中華人民共和国軍の討伐により滅ぼされ、その残党の一部はタイ北部(メーサロンなど)へ逃れ、また一部は台湾に渡りました。

 

正統な「中国」を巡る争い

中華民国と中華人民共和国の領土的な問題は、上記のような推移を見せたのですが、「中国を代表する正統な政府」の争いは、その後も続きます。
国民党政府が台湾に逃れたあとも、1971年まで中華民国が国際連合の加盟国であり、国際安全保障理事会の常任理事国だったのです。
このようなねじれ現象が生じていたのは、東西冷戦が関係しています。

1950年に起こった朝鮮戦争は、アメリカを中心とする西側諸国とソビエト連邦を中心とする東側諸国の対立構造をより鮮明にします。
日本が連合国諸国と結んだサンフランシスコ平和条約の締結にもこれは影響しており、ソ連は会議に招かれたものの署名はせず、内戦状態にあった中国の両政府(中華民国、中華人民共和国)は招待されませんでした。
その後、日本は中国を代表する政府として、中華民国との間で1952年に日華平和条約を締結します。

その後も、国連などの国際機関では、中華民国が中国を代表する政府という扱いを受けていましたが、実情とかけ離れた状態であったのは言うまでもありません。
ゆえに互いの政府は、自身の政府の”正統性”を国際社会に対して声高に訴えていくことになります。

このような運動の一つが、今回、紹介する台湾の「中華文化復興運動」なのです。

なお、国連の代表権を得て国際舞台に躍り出た中華人民共和国は、その後、アメリカ、日本との間で国交を回復していきます。
一方、中華民国は、中華人民共和国と国交を樹立した国とは断交を余儀なくされ、国際的には孤立していきました。
そこで、蒋経国の下で十大建設などの国家的プロジェクトを行って、経済発展に活路を見いだしていくことになります。
※筆者は、1986年~1989年という戒厳令解除の前後に台湾に在住しており、当時の雰囲気をよく体験しています(きわめて強権的な独裁国家だった)。

 

「文化大革命」に対応した運動

1966年8月、毛沢東が主導する「文化大革命」が始まります。
表向きは「封建的文化、資本主義文化を批判し、新しく社会主義文化を創生しよう」というもので、旧習などを打ち壊し、新時代の文化を創るという文化運動と位置づけでした。
が、実際の運動がどのようなものであったかは周知の通りで、本質は毛沢東による権力の奪還と個人崇拝、そして急進的な紅衛兵などによる伝統文化の深刻な破壊などが行われました。

これに反応して、中華民国側で1966年11月に政府主導で始まったのが「中華文化復興運動」です。
中華文化に根付いている儒教思想などを強調し、中国の伝統文化などを守っていく運動という位置づけとして始まります。
「大陸で行われている文化大革命は文化の破壊行為であり、中華民国こそが中華伝統文化を守っていく存在なのである」ということを国内外に大いに知らしめる、という政治的思惑があったことは、当然、言うまでもないでしょう。

台湾が光復後、二・二八事件などの民衆の蜂起があったことは既に述べています。
当時の中華民国政府側からは、日本統治時代を経て、人権や法治主義の考え方を有した台湾人ことに知識人たちは大変扱いにくかったのです。
そこで、彼らを徹底的に弾圧する「白色テロ(白色恐怖)」という政策を1987年に戒厳令が解除されるまで継続しています。

こうした扱いにくさを「日本統治時代の50年間で中国の伝統文化を失ったから」と帰結させる考え方も強く、台湾人から日本時代の文化を取り去り、中華文化に書き換えることを政府は意図していました。
具体的な動きとして、日本語の映画や音楽を公共放送で流すことや使用を禁じたり、日本統治時代の神社の破壊なども行われました。
なお、台湾神宮があった場所には、蒋介石の夫人である宋美齢がオーナーの台湾大飯店(のちの圓山大飯店)が1952年に建設されています。
その後、中華文化復興運動の行われていた1973年には中国宮殿様式の建物に改築されています。
台北を見下ろす山の上に聳える中国的な建物には、大いに政治的意図があるわけです。

さて、中華文化復興運動で行われた内容を列記すると以下の通りです。

・故宮博物院の対外公開(1965年公開だが、観光地としても対外的なPRに利用される)
・各地への孔子廟の設置(再建も含む)
・「中華楽府」の設置と国家儀礼などで使用する「国楽(中華風の伝統音楽)」の普及
・国家慰霊施設である国民革命忠烈祠の改築(元・護国神社から故宮の宮殿様式へ)
・国父紀念館の建設(1972年)
・中正紀念堂および国家音楽庁・国家戯劇院の建設(1975年の蒋介石の死後に着手)

台北の街中で見かける中国風の荘厳な建築物の多くが、この時代に建築されていることが分かります。
いわば台湾の”中国化”を推し進めた時代だったのですが、これについては現地では批判もあります。
台湾に在住していた方の多くがルーツを持つ福建南部の建築様式ではなく、全くゆかりのない北京などの北方の宮殿様式などが持ち込まれたからです。
地元の人たちの声で行われた運動ではなく、政府主導の運動であったことが感じ取れます。

 

「茶藝」や中国茶教育への影響

このような台湾の”中国化”、”中華伝統文化の復興”というムーブメントの中、1970年代に生まれたのが「茶藝」です。

現在の台湾茶藝は少し異なりますが、始まった頃の茶藝の様式は、きわめて中国的な設えや様式で行われていました。
その理由は「中華文化復興運動の延長線上にあった」と考えればスムーズに理解できるかと思います。

先にも述べたとおり、国民党政府が移転後の台湾は蒋介石・蒋経国父子による独裁政権が長らく続きました。
絶対的権力者の推進する文化運動に逆らうことは、有り得ないわけですから、当然、その影響下で開発された「茶藝」も必然的に「中国以上に中国」な印象を与えるものとして構築されます。
台湾で生産された”台湾茶”を用いながらも、中国の要素の強い印象のパフォーマンスである理由はそこにあります。

また、「茶藝」は教室などで教授するものとして生まれていました。
そこで教授される内容は、当然「台湾茶」についてではなく、「中国茶」についてです。
しかし、当時の台湾では、中国との直接的な交易ができませんでしたから、ほとんどの先生方は実際の「中国茶」を飲んだ経験もないのに「中国茶」を語り、教えるということになります。
これはどう考えても無茶な話で、ゆえに正確ではない理解や独自の解釈などが出てくるわけです。黒茶は香港などから送られてくるプーアル茶ぐらいしか、見たことがないので、仕方がありません。

これらで「中国茶」を学んだという気分になっている方が、「中国茶」の書籍を書き、「中国茶」を語っていくわけです。
そもそも、掛け違った内容で教えられていますから、何人もの人が加わると、伝言ゲームのように実情とはかけ離れた理解になっていく・・・というわけです。
日本でも、その影響は大いにあり、台湾経由で入ってきた誤った「中国茶」情報が、正確な理解を妨げていることもあり、困ったものだと感じています。
※基本的に共産党の体制を貶めるのが目的であるため、中国茶の情報がアップデートされていかない傾向が強い。

 

なお、中華文化復興運動は、1976年の文化大革命の終結、1981年の新しい文化政策機関である行政院文化建設委員会の設立などにより、20世紀末には収束していきます。
それ以降は、民進党政権への移行などもあり、”中国的”なものよりも、より”台湾的”なものを模索する方向に進んでいます。

茶藝への影響も明らかで、独裁政権の影響が薄れた21世紀に入ってからは日本統治時代の良いものを茶席に活かす、といった考え方になってきています。
日本統治時代が一律に否定される時代から、「良いものは良い、悪いものは悪い」と台湾人自身が峻別できる時代に入ったと言えます。

また、中国茶全般を語る人よりも、台湾茶にフォーカスを当ててお茶を語る人が増えてきています。
若い方ほど、虚構の”中国茶”を語るのではなく、身近な”台湾茶”を語るようになっているので良くなっていると感じます。
が、旧来の残滓はまだ残っているので、取捨選択が必要な状況であるとも言えます。

 

「文革で中国茶の伝統は破壊された」は本当か?

ときおり、台湾側の主張にどっぷりとハマっている方から、「中国のお茶は文革で全てが破壊されているからダメだ」という主張を聞くことがあります。
これは典型的な国民党のプロパガンダに踊らされているだけだと個人的には感じます。

というのも、中国では、現在、伝統的な茶文化の復興がどんどん行われているからです。
破壊されたものが、復興し始めているという点を完全に見逃しているのです。

たとえば、伝統的に行われていた正山小種の”過紅鍋”という釜炒り工程があります。
これは、発酵させた茶葉を釜炒りして発酵止めを行うという工程でしたが、生産効率が悪いとして長らく廃止されていたものです。
しかし、中国の茶業が活発化し、価格が上昇してきたため、伝統製法を用いても採算がとれる状況になってきました。
そこで、一部の茶業者の中には”過紅鍋”を行って、正山小種を製造するところも出てきています。

また、先日、ユネスコの無形遺産に「中国の伝統的製茶技術と関連風習」が登録されたように、各地の名茶とその製造技術・関連風習が保護の対象となってきています。
かつて製造されていたお茶の復刻などへの動きも多数起きているというのが、現在の中国の状況です。
失われたものを取り戻そうとしているのが現状であって、破壊して終わりっぱなしではありません。
このような主張をされる方は、文革の頃の情報から何もアップデートされていないのではないか?と思います。

 

そもそも、中国茶の伝統を破壊したという観点で言えば、日中戦争~国共内戦の方がよほど大きな影響があります。
茶葉の生産量が1949年時点では、中国全土で約4万トンまで低下していたのですから、相当の数のお茶の生産が止まり、茶園も荒廃したことでしょう。
中国の茶業統計を見れば分かりますが、文革期は茶業を停滞させたわけではなく、生産はどんどん伸ばしていた時期です。
茶業生産を活発化させようとしていた文化大革命期よりも、国土を荒らし回った戦乱の方が、よほど影響が大きいのです。
このあたりを見逃している時点で、プロパガンダに踊らされているとしか見えません。
冒頭の話に戻りますが、当事者の話だけでは、このような一方的な宣伝に簡単に乗っかってしまいがちです。注意しなければいけないところです。

 

中国では、「戦乱が続く世の中では酒が発展し、平和な世の中では茶が発展する」と言われます。
今後も茶が発展できるような平和な時代でありたいものです。

 

次回は9月1日の更新を予定しています。

 

参考:『台湾から見た文化大革命―中華文化復興運動を中心に』菅野 敦志

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