第144回:物事を捉える2つのアプローチ

絵画的な捉え方と写真的な捉え方

唐突ですが、物事の捉え方には2つのアプローチがあると感じています。
それは”絵画的”な捉え方と”写真的”な捉え方です。

この2つの捉え方は、実はかなりの違いがあるのですが、一見するとどちらの捉え方を用いたものか分からないケースがあります。
これらが混在している場合には、この見方の違いを理解していない人にとっては、混乱を生んでしまうケースがあります。

個人的に、現在の中国茶をとりまく様々な情報の流通状況は、この状況に近いのではないかと感じています。
今日はその仮説について、少し述べてみたいと思います。

写真的・絵画的な捉え方とは

まず初めに写真的な捉え方というのは、現実をありのままに捉えて切り取るということです。
そのような切り取り方をしたものは、写真機の性能や味付けの問題はあるかもしれませんが、比較的、現実をよく表した形になっているはずです。
多くの方が同じ対象を写したとしても、比較的、似通った画になるはずです。
※実際の写真作品には、撮影者の意図や技術などが含まれるので多彩ではあるのですが、ここは絵画との対照物としてお考えください。

一方、絵画的な捉え方とは、描き手が受け取ったものを咀嚼して吟味し、それを描き手が再構築し、技術を駆使して描いていくものです。
この場合は、描き手の主観が大きく含まれることになりますし、写実的なものもあれば、極端にデフォルメされたものもあります。
同じ対象物を描いても、かなり大きな違いが出ることも多くあると思います。この点は写真との大きな違いです。

それぞれの切り取り方と再現のされ方は、これでご理解いただけたかと思います。
この視点を持って、中国茶の世界はどのように切り取られて、表現されてきたかを考えてみましょう。

かつては”中国茶”全体を述べようとすれば、絵画的に捉えるしか無かった

このブログでは何度も繰り返し、お話ししておりますが、日本で嗜好品レベルの高水準な中国茶が多く流通するようになったのは、1990年代の後半ぐらいからです。
それより少し前の1980年代から、中国茶に関する書籍は出版されており、1988年に出版された松下智先生の『中国名茶の旅』、1990年に出版された谷本陽蔵先生の『中国茶の魅力』などは一つのシンボリックな存在でもありました。
その後も、多くの方が中国茶に関しての書籍を刊行されています。

これらの多くは、日中国交正常化後から地道な現地への訪問などを繰り返してこられた、偉大なる活動と高い見識によって書かれた本であったと思います。

しかし、当時の中国の茶業の発展状況や現地の茶に関する知識・見識の整理具合では、なかなか難しい部分もあったことは容易に推察されます。
多くは学術の世界の方によるものなので、おそらくは”写真的”に捉えるアプローチをし、当時として得られる限りの情報を集め、分かる範囲に絞って著述をされていたのであろうと思われます。

当時の状況をイメージするならば、デジタルカメラの出始めの頃のような、35万画素ぐらいの解像度であったと考えるべきかもしれません。
このくらいの解像度しか無いと、ごく限られた範囲の撮影であれば、隅々まできちんと映った写真になったことでしょう(特定の産地、特定の領域についてだけ論じる場合)。
が、より広い範囲を映そうとすれば、遠くから見るときちんとした写真には見えますが、隅々を拡大して見るとかなりぼやけた画像になってしまうものです(中国茶全体を語ると、齟齬が出始める)。

また、当時の中国は決して開放的な国家ではありませんでした。
外国人が立ち入れる地域の制限や見せてもらえない、教えてもらえない、そもそも調べても分からない、ことなども多数あったでしょう。
そうしたところは、まさに写真で言うところの”光が届かない”場所ですから、写真で映すとしても真っ黒になってしまいます。
あまり格好の良いものではないので、適当に補って書いてしまいたいところです。
が、学術の世界の方であれば、事実や適切な根拠を持たずに適当に補って書くということは、普通は行いません。それは学術の世界では、明らかにタブーだからです。
その代わり、分かっていることだけを列記するということになります。
すると、それぞれの関連性というのがやや分かりにくくなってしまうわけです。
あまり、初心者には優しい書籍にはなりません。

中国茶がより普及されることを考えると、関連性をきちんと表現した書籍が必要になります。
そこで、学術の世界以外の方が、中国茶全般について著述する本を出版することになります。

この場合、全体像が分かることを優先しますから、こうした”映らない場所”を避けて通るわけにはいきません。
そこで、ある程度の推測や推論でもって、全体を説明するという試みを行っていきます。
書籍などでも、写真的な捉え方だけでは無く、絵画的な捉え方(映らない部分を想像で補う)が増えてくるわけです。

古くからある中国茶の書籍で、同じ事象を採り上げていても、見え方が違うのは、この絵画的な捉え方が混在しているという事情も大きいように感じます。
現実的に”物事をありのままに捉える”というのは、実に難しいことだったのです。

現地からの高解像度な情報が入り始めると・・・

しかし、時代が下がり、2006年頃には中国茶の生産量が100万トンを越え、中国の茶業が次第に規範化してきました。
茶業と茶に関する研究も盛んに進み、茶産地の大学には「茶学部」が設けられ、学術的な知識・見識もどんどん積み上がっていきました。

さらに、中国では”茶文化”として、お茶そのものに関する情報を発信する試みを茶業者が積極的に行っています。
国営企業時代であれば、とても見せてはもらえなかったような生産現場の動画が、WeChatなどでも普通に流れてくる時代です。
もはや中国茶に関する情報は、多すぎて溢れかえるぐらいになってきています。明らかに時代が変わりました。
先程のデジタルカメラの喩えをするならば、中国側のお茶に関する情報の解像度は非常に高くなってきており、数千万画素クラスの解像度になっています。

日本側から現地の産地を訪問する人たちの属性も、学術関係者よりも最近はむしろ、特定の産地に特化した茶業者や愛好家の方が多いくらいかもしれません。
こうした方々が、現地の超高解像度な情報を持ち帰って、超高密度な発信をされたりしています。

こうなると、当然起こってくる問題があります。
それは低解像度の時代に出版された中国茶の書籍に載っている情報と、現実の情報の間で整合性が取れなくなってくるのです。
これまでは、何となくぼんやり見えていた(130万画素ぐらいでしょうか)中国茶の姿でしたが、ところどころに超高解像度で鮮明な知識・情報が差し込まれるように入ってくるので、非常にアンバランスな画になっているわけです。
特に、これから中国茶を始めようとする方にとっては、解像度が部分部分で違っているという中国茶の画は非常に奇妙に感じられているはずです(昔からいる方にとっては、勝手にスケーリングするのであまり問題が無い)。
また、いきなり高すぎる解像度の情報を渡されても、初心者には荷が重すぎます。非常に難しいジャンルであると避けられてしまうことにもなるでしょう。
大変、由々しき問題であります。

どうしたら違和感の無い画になるか?

このミスマッチをどうしたら解消できるか、というのが大きな課題です。
解消のための方法論としては、

1.高解像度な情報を省いて、低解像度に揃える(詳しすぎる情報は無視するか、上手に間引いて解像度を合わせる)
2.写真的な捉え方を放棄して、絵画的な捉え方に統一する
3.そもそもの全体を捉える解像度を、現代に合った適正な水準に引き上げる

というようなケースが考えられます。

まず、1については、簡単なようでいて、非現実的です。
というのは、そもそもの低解像度な情報は、高解像度な情報と突き合わせてみると、間違った内容であることも多いからです。
分かりやすいようにと注釈を加えて説明したつもりの内容が、実はその注釈自体が全く見当外れの間違いであったということも良くあります(六大分類などで顕著)。
低解像度な情報は一旦廃棄し、もう一度、高解像度な情報で捉え直す、という作業を咬ませた方が、今後のことを考えると良いでしょう。
昔のぼやけた写真を、現代の雑誌の表紙にずっと載せ続けておくというのは、ちょっと考えられませんよね。

2についても、現実的では無いでしょう。
今やネットを通じて、リアルタイムに中国の情報は入ってきます。
それらをシャットダウンして国内だけで通用する情報を流すというのは、現代社会では無理でしょう。
もし、それをするならば、デジタル万里の長城を構築するぐらいの手間があり、それは全く割に合いません。

このように考えていくと、3の方法しか残らないのですが、これも越えるべきハードルは低くありません。
それでも、全てを数千万画素クラスにするという発想を捨てれば可能性はあります。

実際問題として、業者として仕入れをするのでは無く、一般消費者レベルで知っておくべき情報というのは、そこまで高解像度である必要は無いからです。
これも写真に例えると、A4サイズで印刷するならば、せいぜい900万画素もあれば十分というのに似ています。
高解像度過ぎる情報は、情報を受け取る側の負担も重たくなってしまうので、このくらいの解像度に揃えるのが良さそうです。

解像度を揃える方法

具体的にどうすれば良いか?ですが、そもそもの中国茶の全体像を900万画素ぐらいの解像度で、理解し直すことです。

これを実現するには、従来の書籍に頼って勉強するのでは無く、現代の中国で出回っている情報に基づいて、教科書を作り直す必要があります。
なぜならば、昔であれば光が届いておらず、真っ黒になっていた部分も、今ではだいぶ見えるようになってきているからです。
その部分の情報も織り込んで、極力、全体に光が回った状態で中国茶の全体像を捉え直す必要があります。

これは言葉にすると簡単なことのように聞こえますが、実際にはそれぞれの内容を写実的にきちんと、ありのままに捉えて切り取る必要があります。
このようなことが、現時点でできると思われる方は、私自身を含めても、あまり心当たりがありません。

特定のお茶だけが詳しいのではダメで、ある程度の種類のお茶は深く知る必要があるでしょうし、それぞれのお茶とお茶との共通点や関連性なども、ある程度、法則性として掴んでおく必要があります。
まさに中国茶に関する幅広い「見識」「知見」が必要ということなのです。
なぜ、これが重要かというと、この「見識」や「知見」は、写真で言うところの”圧縮アルゴリズム”だからです。

ある程度の高さの解像度の見識・知見(アルゴリズム)を備えた人でなければ、現在の中国茶の全体像を捉えることはできないと思います。

なぜなら、現代の中国茶産業はあまりにも大きくなりすぎているからです。
年間数十万トンレベルの生産量であれば、産地も限られていますから、「全ての産地を訪問しました」という経験でもって書籍を書く、というのは十分あり得ました。

が、今のように300万トンレベルとなると、そのような地道な作業だけでは、一生のうちに本を書くことは不可能でしょう。
人間の時間が有限である以上、訪問できる場所にも限りがあります。
さらに同じ産地であっても、生産者によって製法やこだわりのポイントはそれぞれ違います。
各産地で数人の生産者を訪ねた経験だけでは、とてもそのお茶のことが分かっているとは言えません。

もちろん、訪問経験は大事なことなのですが、それ以上にいくつかの訪問経験を照らし合わせて、法則性などを見極めることができるような見識を持ちうるかどうかの方が、より大切です。
かつてであれば「何カ所の産地を訪問した」のような経験を積めるだけの年輩の人が有利だったでしょうが、現在の状況では、むしろ法則性を見出せる若い人の方が有利かもしれません。

究極的には次世代の人材が必要

現時点で、適任の方がいないのであれば、それは今いる人が成長を遂げて書けるようになるか、あるいはニューヒーローの登場を期待するかしかありません。
個人的にもこの問題は非常に大きな問題であると捉えており、できれば高解像度な教科書のようなものを作ろうと努力はしていますが、なかなか難しいものです。

今、最低限できることとすれば、自分で現在分かっていることを出し惜しみをせず、初心者の方にでも受け取れるような形で、お伝えしてしまうことだと思っています。
そして、日本国内での中国茶の常識水準を、徐々に高めていくということです。
これだけでも中国茶の解像度はある程度上がるでしょう。

というのも、自分自身が、中国茶の現在の知識水準に至るまでには、相当の回り道をしています。
書籍などを読んでも、まさに低解像度でしたし、不可解な創作と思える部分にも悩まされました。
この部分がもっとスムーズであったら、ひょっとしたら既により高解像度な教科書も書けていたかもしれません。

後から来る人には、この回り道部分を早く通り抜けてもらい、そこで短縮した時間と節約したエネルギーでもって、さらに先へと進んでもらう。
この繰り返しをして行けば、今ではできないような高解像度の情報を軽々と整理できるような人材が育つのではないか、と考えています。

全ての学問というのはそのようにして発展してきたわけですから、今、知識を有している方が、ペイ・フォワードの精神でやっていくことが問題の解決に繋がる気がしています。

 

次回は6月16日の更新を予定しています。

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