はじめに:本記事を執筆する理由
昨今、ネット上やSNSにおいて「中国茶は無施肥(肥料を与えない)だから素晴らしい」「肥料を与えるのは金儲け主義の量産茶だ」といった、極端な言説が見受けられます。
野生に近い環境へのロマンは理解できますが、私たちが感動するような華やかな香りや深い味わいの多くは、農家の方々が緻密な「土づくり」をしてくれているおかげで成り立っています。
どうも、その基本的な認識が一般のお茶愛好家の方に十分に理解されていないように感じています。
その誤解ゆえに、真っ当な茶の栽培・生産・流通をしている茶業者の方が、不当に指弾されているケースがあるようです。
そこで、肥料がチャノキに与える効用とそれを活かすための製茶技術について、基礎的な内容を前編・後編の2回シリーズで書いてみたいと思います。
なお、本記事で記載することは、茶業に携わっている方ならば基本中の基本の話ですし、また愛好家の方へ向けた内容ですので、説明を省略・簡素化している点があることはご了承ください。
「無施肥のロマン」と「農業の現実」
さて、「自然のまま、肥料を与えずに育てるのが一番だ」という意見には、農業における決定的な視点が欠けています。
それは「収穫による養分の持ち出し」です。
野生の森であれば、落ち葉が腐葉土となり養分が循環します。
しかし、チャノキは数十年から百年以上も同じ場所で育つ「永年性の常緑樹」です。
そして農家は毎年、樹が土壌から吸い上げ、一生懸命に蓄えた「最も栄養の詰まった新芽」を摘み取って(畑の外へ持ち出して)しまいます。
人間が毎年葉を奪い続ける以上、その土壌に何らかの形で養分の補給を行わなければ、土壌の成分は枯渇する一方で、樹は数年であっという間に衰弱してしまいます。
深い森の中に一本だけお茶の木があるというような環境であれば、周囲の樹木や昆虫、動物などから補給される可能性もありますが、一般的には適切な養分をミックスしたもの=肥料の助けを借りることになるでしょう。
優れた農家が行っているのは、自然の搾取ではなく、土壌への「恩返し(適切な施肥)」なのです。
チャノキの体づくり:肥料の「三要素」の役割
では、補給すべき肥料にはどのような役割があるのでしょうか。
まず最初に、植物が育つために欠かせない「肥料の三要素」があります。
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リン酸(P / 実肥・みごえ): 細胞分裂やエネルギー伝達を助ける、樹全体の「潤滑油」。
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カリウム(K / 根肥・ねごえ): 過酷な環境(寒さや干ばつ)に耐える強い根、つまり「基礎体力」を作る。
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窒素(N / 葉肥・はごえ): お茶づくりにおいて最も決定的な役割を果たす要素。植物の細胞や葉緑素を作るだけでなく、お茶の旨味成分である「テアニン(アミノ酸)」や「巨大なタンパク質」の直接的な材料となります。
土の中にこの窒素が十分にある時、チャノキは「環境が良いぞ!どんどん大きくなろう!」と判断し、吸い上げた窒素を使って大量のアミノ酸やタンパク質を体内に合成し、葉を青々と茂らせます。
これを「一次代謝(いちじたいしゃ)」と呼びます。
一次代謝が活発に行われていると、生体活動のエネルギー源であるATP(アデノシン三リン酸)が活発に生産され、細胞成長や分裂に必要な有機物(アミノ酸、核酸など)も盛んに作られます。
これが安定していると、この後に出てくる環境に適応する二次代謝の基礎となります。
人間も丈夫な身体作りのためには、炭水化物・タンパク質・脂質のような「三大栄養素」が必要になるというのと同じです。
名茶を創る「有機肥料」と「秘伝のレシピ」
窒素・リン酸・カリウムはあくまで三大栄養素であり、これだけでは複雑な風味は生まれません。
チャノキが真のポテンシャルを発揮するためには、マグネシウムやカルシウム、鉄分などの「微量ミネラル」が不可欠です。
これらは後工程で活躍する「酵素」の重要なパーツとなったり、激しい製茶工程に耐えうる「強固な細胞壁」を作ったりします。
化学肥料だけでは補いきれないこれらの複雑な成分を土壌に与えるのが、大豆粕や菜種粕などを独自に配合した「有機肥料」です。
トップクラスの農家は、自分の茶園の土壌の欠如成分を見極め、「うちはカキ殻でミネラルを強化する」といった独自のブレンドを行っています。
このように、肥料を与えるというのは、単に窒素を与えて葉を大きくするのではなく、多様なミネラルと微生物の働きを借りて土壌を豊かにすることが必要です。
自分の畑の養分の状態を見極め、それに合わせた養分を補うような農家の「秘伝のレシピ」こそが、そのお茶にしか出せない奥深いテロワール(風味の個性)を生み出しています。
どのような肥料をどのようなタイミングで与えるのかは、農家の考え方次第でコントロール出来る部分であり、大きな差別化ポイントになり得るノウハウなのです。
成長を止めて発動する「サバイバル・スイッチ」
ここまでお読みいただくと、お茶にとって肥料が重要なポジションにあることが分かると思います。
では、なぜ「肥料をやると香りが落ちる」と誤解されるのでしょうか。
実は、華やかな香りを引き出すためには、豊かに育ったチャノキをあえて「生命の危機」に直面させる必要があります。
中国や台湾の烏龍茶・紅茶の農家では、収穫時期が近づいてくる頃に、肥料の成分が土壌から切れるよう設計して肥料を与えています。
収穫時期が近づき、土の中の窒素が少なくなってくると、チャノキは「このままでは危ない」と成長(一次代謝)をピタリと止めます。
栄養不足という厳しい環境から身を守るための「防御モード」へと切り替えるのです。
これを「二次代謝(にじたいしゃ)」と呼びます。
「香りと渋み」はチャノキが生き抜くための武器
防御モードに入ったチャノキは、自らの体内で特別な「防衛物質」を作り出します。
これによって、厳しい環境に適応できるようにするのです。
具体的には以下のような物質を生成します。
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外敵へのSOS信号(テルペン類): リナロールやゲラニオールといった「揮発性の香気成分」です。虫が嫌がる匂いを出したり、害虫の天敵を呼び寄せる信号として香りを放ちます(ウンカに噛まれることで極上の香りを放つ台湾の「東方美人」が良い例です)。
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環境ストレスへのバリア(ポリフェノール): カテキンなどの成分です。強い紫外線から細胞を守る「天然の日焼け止め」として機能します。チャノキは直射日光を浴びるほど、身を守るためにポリフェノールを大量に生成し、これがお茶の力強い「渋み」や「コク」の正体になります。(※日本の玉露が日除けをするのは、この防衛反応を防いで旨味を保つためです)。
チャノキが過酷な環境を生き抜くために生み出したこの「サバイバル成分」こそが、中国茶や台湾茶のうっとりするような香りの正体です。
このような香りを出すためには、収穫前に一定期間、サバイバル成分を生み出すだけの飢餓状態を作り出す必要があります。
優れた農家は、肥料を与えて土台を作り、収穫時に窒素が切れるよう「引き算」のコントロールを完璧に行っているのです。
もっとも、作りたい茶類によって、生葉に残しておきたい成分は異なります。
たとえば、うまみ優先の緑茶と香り優先の紅茶・烏龍茶では、肥料の与え方が全く変わってくるということです。
一本のお茶の木から、”理論的には”全ての茶類が作れると言われますが、実際はこのような肥料のコントロール(肥培管理)が異なるので、そう簡単ではないのです。
このようにして茶畑で限界まで成分を蓄えられた生葉は収穫され、いよいよ茶師の手へと渡ります。
茶師も無から有を産み出すことは出来ませんので、茶畑できちんと必要な成分を生葉に蓄えさせておくことが重要なのです。
次回は、茶師がこの成分をどのようにして、お茶の味や香りに活かしているのか。製茶所で目覚める「酵素」たちの魔法に迫ります。
続きはこちら→第185回:お茶の発酵で成分が変わるメカニズム







