中国茶に興味のある方の中には、その歴史に興味のある方も多くいらっしゃいます。
悠久の歴史のある中国茶となれば、その歴史も当然、深いものがある・・・ということになるのですが、非常に怪しげな話も多いのが、歴史というものです。

お茶に関していえば、かつてのお茶はどのような味わいや香りであったのか、を知る術は文献に記述される表現を追っていくしかありません。
ところが文献に書かれているものは、得てして断片的なものになりがちです。

本来であれば、その時代背景や文献が書かれた背景などを綿密に考証を行い、きちんと読み解くことが必要です。

が、その茶の産地などの利害関係者は、ややもすると「我田引水」のような解釈を行うことが横行しています。

日本人の感覚で行くと、「産地の人に聞いたのだから、なんでも正しい情報だろう」と考えがちです。
が、こと歴史に関しては、「産地の人が言うからこそ、慎重に考えなければならない」というのが、私の意見です。

いくつか具体例を挙げてみたいと思います。

 

「茶陵県は、昔から茶の栽培が盛んであった」という主張

昨年11月に訪問してきた湖南省株洲市の茶陵県。
ここは神農氏の出身地であることや「茶陵」という地名をフックにして、現在、茶業の振興を図ろうとしています。

茶陵県は、歴史的にみても中国で唯一、「茶」という名前が冠された行政県であるようです。
これについては、さまざまな文献等から検証されていますが、どうやら事実のようです。

とはいえ、なぜ「茶陵」という名前になったかについては、諸説あり、未だ確定したことは言えない状況です。

産地としては、”お茶をたくさん生産しているから「茶陵」という名前になった。「茶陵」は遙か昔から茶の名産地だった!”というのが、もっとも好ましい歴史なのですが、残念ながら、学術的にみれば、そこまでハッキリしたことは言えない状況です。

なにしろ、最近までお茶をほとんど生産しておらず、以前ご紹介した茶祖公園を整備する際に、茶園を一挙に開発したばかりなのです。

歴史的にお茶どころでなかったことには、裏付けもあります。
湖南省長沙市にある湖南省博物館には、宋代の乾道年間に湖南省でどのくらいのお茶が、どの地域で生産されていたかを図示しているパネルがあります。

これによると、湖南省の総生産量は年間81万7060斤とあり、そのうちの500,960斤(約61.3%)は岳州で生産されていた、としています。
岳州とは、現在の湖南省岳陽市のことであり、岳陽市といえば、代表的な黄茶である君山銀針の産地としても知られます。
湖南省の茶処として、昔から有名だったのは岳陽市だったようです。

茶陵県は、宋代には衡州(現在の湖南省衡陽市)に所属していました。
衡州を見てみると、5,449斤という記録になっています。岳州の約10分の1です。
「宋の時代だけ、たまたま茶の産量が少なかったのだ」という主張もあるかもしれませんが、古来から茶産が盛んであるのならば、この数値はややおかしく感じます。

もっとも、このデータ自体が間違いの可能性もあります。
しかし、湖南省博物館のような場所はきちんと、学術的な考証を行った展示をしているはずですから、その可能性もどうも低そうです。

このようなことから、茶陵県は昔から茶の名産地であって・・・というような、現地の茶業者や政府関係者の主張は、どうも信憑性が低そうです。

 

安化黒茶が黒茶の発祥地であるという主張

同じ湖南省で、最近、鼻息が荒いのが湖南省益陽市の安化県です。
「三尖三磚一巻」という言葉で表現される、安化黒茶と呼ばれる黒茶を盛んに生産しています。

「三尖」とは、天尖、貢尖、生尖というやや高級な生葉を使って作る安化黒茶のことで、「三磚」とは、黒磚茶、茯磚茶、花磚茶という緊圧した安化黒茶製品のことで、「一巻」とは、千両茶などの名で知られる柱状の緊圧茶のことで、バリエーションとして十両茶、百両茶、万両茶などの重さの異なるお茶があり、それらを総称した言葉が「花巻茶」となります。

安化黒茶は2017年、農業部が五十数年ぶりに改選を行った「中国十大名茶」に選定されています。
このへんは非常に政治的な思惑が強いと感じているのですが、そのような背景もあってか、とにかく強気の発言が目立ちます。

特に、最近は安化県こそ黒茶の発祥の地である、というような主張をするようになってきています。
さらに伝統的に優れた茶を産する地域である、とも。

その根拠として、必ず出てくるお茶があります。
安化県にある渠江鎮が原産とされる、渠江薄片(きょこうはくへん)というお茶です。

このお茶は昔から著名なお茶で、唐代ごろからその名があり、明の時代には献上茶になったとされています。
文献によれば、薄型の緊圧茶であり、このお茶の色合いは鉄のようで黒っぽいものだった、と伝わっています。
しかしながら、その製法は途中で断絶しており、往時の渠江薄片が本当にどのようなお茶だったかは分かりません。

21世紀になってから、渠江薄片は民間の業者によって復刻がなされ、黒茶を古銭型に緊圧したお茶として流通するようになっています。

地元の茶業者や茶葉局の局長などは、「黒っぽいお茶だった」という表現をもって、「渠江薄片は(製法上でいうところの後発酵を伴う)黒茶だった」とするのですが、唐代に黒茶を作っていたという話は、にわかには信じられません。
むしろ、唐代なのですから、このお茶は緑茶であり、表面を焙ったりすることによって、黒っぽく見えるお茶であった、という説の方が、より信憑性があるでしょう。

そもそも、安化県に茶工場ができて茯磚茶の生産が始まったのは、新中国が成立してからのこと。
それまでの安化県は、陝西省への茯磚茶の原葉供給地として機能していた産地であり、黒茶の核心となる製茶技術を有していなかったと思われます。

件の湖南省博物館の宋代の生産記録を見ても、安化県は当時、潭州長沙郡に属していたとされます。
そうなると、潭州全体でも125,349斤と岳州の4分の1の規模です。

昔から茶産の歴史があった可能性はありますが、そこまで有力な産地ではなかっただろう、というのが妥当な評価だろうと思います。

「新中国建国後(とりわけ改革開放後)に頑張って、茶の生産を伸ばしました!」と正直に申告すれば良いと思うのですが・・・
なぜか悠久の歴史があるとか、酷い話になると、紀元前2世紀頃の馬王堆漢墓から出土した茶らしき植物は、安化黒茶の原型に違いない!ということを、産地の方々は語ります。

ある程度、中国茶の見識がある人なら、すぐに矛盾に気づく程度の話なのですが、「現地で聞いた話だから、これこそが真実」と拡散する先生方も多く、もう少し慎重に話の真偽を吟味してもらいたいと感じます。
※なお、黒茶の発祥地がどこかというのは、各産地が「我こそが!」と名乗り出ており、非常に混沌としています。

利害関係者のある歴史は厄介

この2つの事例をみて分かるのは、産地はどうしても我田引水になりがちであるということです。
希望的観測から、事実を曲解することや論理の飛躍、すり替えが起こりがちだということです。
歴史をねじ曲げ(あるいは都合の良い解釈を積み重ね)てでも、それがストーリーとして面白く、さらには一般的な常識として通用すれようになれば、それは産地のブランドにはプラスに働きます。

ゆえに、自分たちの都合のよい歴史を宣伝してくれそうな方には、それこそ顎足つきで接待してくれることもあります。
それはそれで、現場に入り込む一つの手法としては非常に良い方法だと思います。

しかし、そこで得られた情報が本当に正しいものであるかどうか。
正確な知識や情報を伝える立場にある人であれば、きちんと裏付けをとり、情報の取捨選択をした上で、紹介していただきたいものです。
さもないと、真実を埋もれさせ、歪んだ情報を拡散することの片棒を担ぐことになりかねません。

新中国というのは「宣伝」で出来上がった国でもあり、この手の情報戦は得意分野です。
このようなことに免疫のない日本人は、注意しないと良いカモになってしまいがちです。

 

次回は1月31日の更新を予定しています。