第152回:スローガン的な”友好”よりも”相互理解”の促進

今年は日中国交正常化50周年

今年は日中国交正常化50周年ということで、各地でさまざまなイベントなどが開かれています。
そうした交流イベントなどでは、中国茶が振る舞われたり、中国茶の簡単な講座なども行われていたりします。

そのような”日中友好”の文脈で中国茶が使われることもあってか、中国茶の活動をしていると、いささか困惑する場面に出くわすことがあります。
この困惑する場面には2つのタイプがあり、

1.明らかな敵意を向けられる場合
2.先方からは好意を持っていただいているようだが、どうも素直に受け取れない場合

があります。

今回はこれを一つのケースとみて、いわゆる”日中友好”という問題について、少し考えを述べてみたいと思います。

 

安易に”国”でレッテル張りすることの危険性

さて、先程挙げた、1の”明らかな敵意を向けられる場合”というのは、非常にシンプルです。

政治的な主張が強い方に多いのですが、「中国というのは(何かと)けしからん国であって、そこの国のものを紹介するなどとは何事だ!」という話です。
これは一時期よりは随分と減りましたが、結構根強いものがありまして、度々出くわす問題です。
特に、イベントの広告などを打ち、本来であれば接触がほとんど無い方に情報が届いたりすると、SNSやメールで誹謗中傷コメントが届いたり、嫌がらせ等が起こります。

活動初期の頃は、こうした一つ一つのコメントを、大変ショッキングに感じ、気分を大きく落としてしまうものでした。
が、最近は”よくある反応”として、冷静に対処ができるようになってきています。

そもそも、このようなメッセージを送りつけてくる方々は、国家・政府と文化と人というものを混同しがちな人であると思います。
正直、戦時中の”鬼畜米英”のメンタリティーと何ら変わらない、前時代的な主張だと感じます。

これは立場を置き換えてみると分かるのですが・・・

たとえば、日本国内で常軌を逸するような不祥事や事件を起こした者がいたとしましょう。
国内でも非難が殺到し、自分自身でもひどい事件だと憤っているとしましょう。
それなのに、海外に行った際に、その事件を引き合いに出され「あんな事件を起こすような国の人間は信じられん。サッサと出ていけ!」と言われたら、どう思うでしょうか?
あるいは、自分が直接選んだわけでもない総理大臣の政治的な主張や政策が気に入らん、ということで、「日本人の入店お断り」のような看板を掲げられていたら、どう思うでしょうか?

おそらく、相当憤ると思います。
多くの人はその事件とも、政治的な意思決定にも関与していないわけで、自分には関わりのないことで拒絶されたら、やるせない思いがするでしょう。
その国の人の人柄だったり、観光地の素晴らしさだったり、料理の美味しさなど、色々な魅力を感じていたとしても、幻滅して帰国することになります。
これは双方の国にとって、非常に不幸な結果です。
わざわざ多額の交通費と時間を掛けてやってきた、自分の国のファンになるかも知れない人に水を掛ける行為ほど、馬鹿げたものはありません。

安易に”国”でレッテルを貼ってしまう人は、海外経験や外国人との交流経験に乏しい方に多いものです。
「自分がその立場になったら・・・」という、想像力が欠如しています。
このような方々とは、正直、話しても議論は平行線で、無駄なことが多いので「静かに距離を取る。以降は関与しない」。
これが一番の解決策だったりします。

 

”友好”の押しつけも違う

もう1つのケースは、先方は好意を示しているつもりなだけに、ちょっと厄介なケースになります。
”中国のものが好き”=”中国が好き”=”中国の全てを肯定している・日中友好に向けて活動している”というふうに、一気に拡大解釈をされてしまう場合です。

先方からは同志だと思われているようなのですが、あいにく、こちら側としては、”中国のお茶に魅力を感じている”のは事実ですが、中国の全てを肯定する気はありません。
「部分的には良いこともあるけれども、非常に困ったこともあるよね」という、ごく一般的な認識をしているつもりです。
熱心に中国茶の活動をしているから、中国政府の言い分を伝えることにも熱心だろう・・・と解釈されると、これはもう、困惑するしかありません。

そもそも、個人的に”日中友好”というワードは、中国側の政治スローガンだと解釈しており、できるだけ使用したくない用語です。
その理由は、”友好”ということが必須ゴールになっているからです。これは現実的な解ではないと考えています。

幼稚園や小学校、あるいは義務教育の現場くらいまででは、「みんな仲良くしなさい」ということは常に言われることかもしれません。
しかし、実際の社会で色々な人と出会っていけば、”馬が合わない”人もいるでしょうし、”関わりたくない”と感じる人も出てくるものです。
この場合は、”みんな仲良く”ではなく、”周囲と上手く折り合いをつけなさい(苦手な人とは程々に波風を立てない程度に接するか接しないように工夫する)”というのが正解になります。
”みんな仲良く”は理想ではあるけれども、現実と乖離しすぎているのです(スローガンとは、そういう無茶なことを唱えるものです)。

そもそも、日中国交正常化50周年は、別の側面から見れば、日華国交不正常化50周年でもあります。
これは、幼少期に台湾に数年住まわせてもらった立場からすれば、あまり心中穏やかなことではありません。
というわけで、「50周年で、めでたいですね」という感情はあまりなく、淡々と歴史を感じるだけというのが、この50周年を迎えての正直な感想です。

私などは、熱烈な中国茶ファンであり、中国政府の茶業政策について好意的な評価をしているように見えるかと思います。
しかし、全てに賛同しているわけではないというのは、当然のことです。
そこをすっ飛ばして、冒頭のような拡大解釈をしてしまうというのは、”国”でレッテルを貼ってしまう人と同根の問題を抱えているのかもしれません。

 

”友好”はあくまで結果。”相互理解”こそができること

日本と中国というのは、非常に近しい距離にあり、また歴史的にも交流の多くあった国同士です。
しかしながら、19世紀~20世紀には、双方にとって不幸な歴史があり、そこで交流が分断し、両国の相互理解も随分失われてしまっているように感じます。

そのような中で、もっとも求められるのは、”友好”の活動というよりは、等身大の姿や文化のさまざまな側面などを、さまざまな交流を通じて、理解していくことではないかと感じています。
その媒体の一つとして、両国のさまざまな文化を背負った”茶”というのは、大変良い存在ではないかと感じています。

日本も中国も、世界的に見たら、有数の茶産国であり、茶文化のある国同士です。
しかし、双方の茶への認識や取り組みの違いは、かなり大きな差異があります。
その差異というのは、歴史的なものや文化的なものから生まれていますから、両国の茶を学ぶことは、即ち両国の歴史と文化を学ぶことに繋がります。

そのためには、変に”友好”を意識せず、できるだけ政治的にフラットで、フェアな目で、中国の茶を捉えつつ、ご紹介していく。
これが、今後の中国茶を伝える人に求められる要素の一つになるのではないかと感じます。

 

もちろん、学んだ結果、中国茶は大変好きになったけれども、やはり政治的には容認できない、ということになることもあるでしょう。
しかし、単純に”国”でレッテルを貼ってしまうよりも、是々非々で考えることができるようになるというのは、大変な進歩になるでしょう。
また、他の文化にも興味を持ち、例えば、「政治的には容認できないが、中国茶と蘭州拉麺の美味しさは認めざるを得ないし、それを作る職人の技術も尊敬する」というように、国のイメージを多くの要素から構成するようになっていけば、良好な新しい関係が広がっていくのではないかと感じます。

50周年という節目をきっかけに、新しい交流の流れが出てくることを祈念します。

 

 

次回は、10月16日の更新を予定しています。

 

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