第7回:「趣味はお茶」が、どれだけ広まるか

”茶文化”で茶の消費を牽引。中国ではおらが街の茶の博物館建設が相次ぐ

美味しいお茶を飲むことは趣味にカウントされない?

「趣味は何ですか?」と聞かれて、

「お茶です」と答えると、

「ほう、茶道ですか」

と、勘違いされ、妙に感心されてしまうことがあります。

慌てて、

「いえいえ、そうではなくて色んな美味しいお茶を飲むのが趣味でして。中国茶とか台湾茶とか、色々現地に買いに行きまして・・・」

と話を続けると、

「ああ、そうなんですね」と引き受けてはくれます。

が、それで話が盛り上がるということは、あまりありません。

”美味いお茶を、ただ味わって飲む”ということは、どうも”趣味”という範疇のものではないと思われているようです。

個人的には最高の趣味ではないか!と思っているのですが。

 

これが同じ飲み物でも、「ワイン」だったり「コーヒー」だったりすると、どうでしょうか。
反応は少し違うのでは無いかと思います。

ひょっとしたら、同じお茶でも「紅茶」だったら良いのかもしれません(ドラマ「相棒」の効果もありそうですし)。

それにしても、同じ嗜好性の飲料で、コーヒーやワインは良いのに、「美味しいお茶を飲む」ことが趣味として認められないのは、どうにも合点がいきません。

「この差は、一体何なのだ!」と思います。

これをマーケティングを考える上での基礎に立ち戻って、少し検討してみたいと思います。

 

「最寄品」「買回品」「専門品」

様々な商品は、消費者の購買態度によって、いくつかの分類に分けられます。

よく聞かれる分類として、以下のものがあります。

「最寄品」
「買回品」
「専門品」

です。

「最寄品」というのは、消費者の購買頻度が高い商品です。
毎日使うもの、毎日消費するものです。
単価は低く、何度も繰り返し買う商材です。

消費者はこのような商品を選ぶ際は、色々なコストをかけません。
要望に合う中で、できるだけ安いものを買いますし(金額)、わざわざ遠方まで出かけることもしません(時間)し、あまり深く考えたりしません(思考も省く)。
最寄りの店で、パッと手に取るような商品です。
こうした商品は、テレビコマーシャルなどのイメージ戦略だったり、身近なお店でどれだけ目立つところに置いてもらうか、そして価格が鍵になります。

「買回品」は、購入する前に品質や価格などをよく比較して購入されることが多い商品です。
購買頻度は低いですが、単価は高めです。
電化製品や衣料品、家具などが該当します。

このような商品は様々な情報を、上手に消費者に知ってもらうことが必要になります。
そのために専門知識を持った人が、接客販売をするなどし、顧客のニーズに合わせた商品を提案するなどした方が売れるという商品です。

「専門品」は、独自のブランドや個性のある商品で、高単価。購入までにじっくり検討することが多い商品です。
自動車やブランドものの衣服などで、購入頻度はこの3つの中では最も少ないものです。

このような商品は欲しいものであれば、遠方にあっても買いに行きますし、わざわざ取り寄せるなどのコストを払うことも厭いません。
ただ、購入する際は、そのブランドのイメージや取り組みを総合的に見ますので、かなり絞り込んだマーケティングを行って、消費者の心を掴む必要があります。

 

日本では「最寄品」止まりのお茶

この3つの中で、お茶は一体どれに分類されているのでしょうか?

これは人によって違うと思います。

例えば、私にとってはお茶は明らかに「買回品」であり、場合によっては「専門品」です。
なにしろ、わざわざ飛行機に乗って、海外まで買いに行くのです。
ここまで来たら、立派な「専門品」だろうと思います。

 

ですが、一般の方のイメージでは、お茶は「最寄品」なのだろうと思います。
特に注意を払うような品物だと見做されていないのです。

そのような商品だと思われているのであれば、長らくデフレ下にある日本では、茶価が下がるのは当たり前です。

「最寄品」なら、消費者はどんどん安いものを求めます。

そうなれば、”消費者の声に応える”という大義名分のもと、量販店も「安いものでないと扱わない」と言い出します。
黙っていても売れるような商品でない限り、量販店には割くべき棚はありません。
だから、量販店の言うことだけを聞いていったら、どんどん値段を下げるしかありません。

生産者側は、さらなるコストダウンをしていきますが、それには自ずと限界があります。
このような戦略をとれば、早晩行き詰まるのは、誰にでも分かる話です。

 

「日常茶飯」という言葉の副作用

本来、茶業界の経営をしっかり考えるのであれば、解は「より高付加価値のお茶の市場を育てる」しか、ありません。
すなわち「買回品」だったり「専門品」に値するような、お茶のマーケットを育成していく必要があります。

しかし、それに向けての動きは、日本あるいは台湾の量販主体の茶業者からは、本当に後ろ向きだと感じることがよくあります。
いまだに、消費者に「考えさせない」で「安く提供する」に、こだわりすぎるきらいがあります。

 

一例を挙げます。

とある、日本茶業者の方が、中国茶イベントにいらっしゃいました。

そこで販売されているお茶の価格を見て、「こんなひどい商売があるか」と憤慨されておられました。
「茶は日常茶飯のものなのに、なんでこんなに高いお茶を売るんだ」と。

正直、目眩がしました。

 

「日常茶飯」という言葉は、確かに美しい言葉です。

それを実現するために、茶業者の方は人件費が高騰する中、機械化を推し進めるなどして、血の滲むようなコストダウンに努めてきたという自負もあるでしょう。
それはそれで美しいことではありますし、大いに評価するところです。

が、「それでも戦略的には間違っている」と、コンサルタントである私は言います。

「日常茶飯」という言葉を重んじすぎたことこそが、大いに戦略の幅を狭めてしまい、消費者の茶への関心を失わせることに繋がった、と私は考えています。

 

茶は本来、高級なもの。「日常茶飯」は違う意味に

そもそも、丹精込めて作る「茶」という商品は、そんなに安いものなのか?ということです。

先に挙げた業者さんが「高い、高い」と言っていたお茶は、全て手摘みのお茶です。

製茶も、全自動のラインにかけてお仕舞い、というわけには行きません。
熟練の茶師が不眠不休で、数kg単位の小ロットずつ製茶をし、作りあげたお茶です。

台湾や中国のお茶は、南洋のプランテーション的な農園とは、そもそも手摘みのコスト、製茶のコストなどが桁違いです。
さらには、食品が国境を越える場合には、輸送運賃のみならず、農薬の検査や通関費用などが必要になります。
諸々含めれば、日本で手摘みのお茶を作るのと、ほぼ変らないコストになるはずです。
それを高いというのは、今流行りの”ブラック企業”以外の何者でもありません。

 

茶は農作物でありますが、その後に収穫~製造において、大変な人手がかかる工芸品のような性質も持っています。

だからこそ、古来から茶は高価なものであったのです。
「そのような高価で貴重なものを、私のために使ってくださり、丁寧に淹れていただいた」と感じるから、初めて”おもてなし”になるのです。

「茶が高価なものである」という共通認識が社会から無くなれば、茶が出るのは当たり前でありこそすれ、感謝するほどのものでもないでしょう。
むしろ、「この豆は特別のヤツなんですよ」と前置きしてからコーヒーを出してもらった方が、特別なおもてなしをされたように感じるでしょう。
実際、そうなりつつあるのが、現在の状況だと思います。
「安くなければいけない」という思い込みが、自分たちで市場を壊す結果に繋がっているのです。

 

「日常茶飯」という言葉を金科玉条のように拡大解釈し、「茶は安いものでなければならない」「高いお茶を売るのは、けしからん」とするのは、根本的におかしいのです。

むしろ、良いお茶でも「日常茶飯」になるよう、大切にお茶を扱う(単価が高いものでも、少量の使用で済めば「日常茶飯」になります)ことを重視するべきです。
量で稼ぐのでは無く、少量・高単価というビジネスモデルがあってもいいはずです。

あるいは「高価な茶を日常的に飲めるぐらいに豊かな国にしよう」と考えた方が、よほど生産的です。
そういう意識こそが、日本を経済成長させたのではないか、と思います。

 

”趣味的な茶”は可能性

個人的に、この茶業者の方に、気づいて欲しかったことは別にあります。

今までの茶業者の常識では考えられないような金額のお茶でも、「今までのお茶に無い魅力がある」と好んで購入している方が、少数ながらもいるのです。
しかも、多くは昔からの茶好きではなく、最近関心を持った人たちです。
「これは一体なぜなのか?」「このような人たちをもっと増やすにはどうしたら良いのか?」と考えていただきたかったのです。

 

中国茶や台湾茶と同価格帯のお茶の世界が広がれば、茶のマーケット構造が変わります。
そうなれば、日本でも、より高付加価値な茶を生産する方向にシフトする生産者も出てくるでしょう。
茶価を相場では無く、消費者の評価に応じて上げていくことだってできるのです。
やりがいを感じる茶業になれば、担い手も増えていくでしょう。

消費者も選ぶ楽しみが増え、お茶が楽しくなります。

さらに、今までの定番ブランドを再評価する流れも出てくるでしょう。
個性のある商品のおかげで、茶という商品の特性がよりハッキリするからです。
最寄品の価値も、「この価格で、この味なら」というバリューが、ようやく消費者に認められます。

まさに好循環です。

このような可能性が目の前にあるのです。
中間に入っている茶の流通業者が、「我々の常識的にある金額では無い」という、無用なしがらみに囚われている場合ではありません。
生産者が消費者に問いかける場を奪うべきではありません。
高いか安いかを決めるのは消費者です。

 

では、何が違うのか?という点ですが、その回答は、おそらく冒頭にあった”趣味”というところにあると思います。
”趣味的な茶の世界”を広げていくことです。

お酒でイメージしてみると良いかもしれません。
30年前ぐらいに「趣味は日本酒です」「趣味は焼酎です」と言ったら、「酒好きだな」としか思われなかったでしょう。
これらのお酒は、かつては”飲んべえが飲む最寄品”ぐらいのイメージに貶められていたのです。

しかし、今ではそれが「趣味」として、立派に成立するようになっています。

これには、様々な個性を持った商品が出てきたこと。さらにその奥の深さが分かりやすい形に整理されていること。関連する情報も豊富に流通するようになったこと、など複数の要因があります。

このような基盤、言葉を換えるならば”インフラ”ができているからこそ、”趣味”として成立しているのです。

だからこそ、こだわる方は情報をどこかで仕入れて、専門知識と品揃えの豊富な遠方の酒屋にまで出向いたり、中には酒蔵を訪問したりします。
ここまで来たら、「買回品」「専門品」です。

これが”趣味”的な消費の世界です。

 

そうした先行事例に学び、茶が”趣味”として成立するような基盤を整える。
それが、もっとも可能性の高い、茶のマーケット拡大策になると思います。

実際、中国の茶業界は、”茶文化”という名目の”趣味的な消費”が、大きく市場の創造に寄与しています。
台湾でも、若い顧客層はワインやコーヒーのように、茶を改めて学ぶようになっています。
これが茶業を伸ばそうとするための世界の常識であって、そこでは”教育(先生というよりはガイドのような役割)”や”情報”の持つ価値が大いに高まっています。
”買回品”、“専門品”に移行するためには、情報がスムーズに流れることが必要不可欠です。

 

日本でも、

趣味は”お茶”です

と、もっと多くの方が、胸を張って言えるような環境を作らなければいけません。
その先に、茶の未来があるのではないかと思います。

 

次回は3月20日の更新を予定しています。

 

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